「紀之介くん、おいで」
夏の日、汗が机や書状に染み込んで汚れていくのを感じながら、私はとある決意をした。
「紀之介くん、これを見て御覧。今日はいつもと違うお薬を処方するよ」
恐らく今、私の顔は隠しきれない喜びに満ち溢れているのだろう。彼は訝しげに眉を顰めた。ああ、黒い眼球の形に添った目蓋がいとおしい。
「君のために特別に大陸の商人から手に入れたんだ。本当はもっと早く使いたかったのだけれど、なにぶん変わった薬だから、君との信頼関係を築いてからにしようと思ってね」
「……よ、われとぬしはいつ信頼など築いた」
「確かに少し急いた感は否めないね」
「期間の問題ではない、よ、われはぬしのような胡乱な輩と築く信頼など持ち合わせておらぬ」
「それでも聡い君は、私の薬が他より効くことを理解している。君はもう私に頼らずに病を抑えられない。そうだね?」
「……」
「私なしではいられない紀之介くん。ふふ、なんて可愛いんだろう」
病という直接的な単語を出せば、彼の口元はひくりと痙攣し、眼球が下方を向いた。彼の傷口を抉る快感に酔いながら、私は彼の目の前に小瓶を差し出し、振る。
「痛みを抑える薬だ。一時的なものだが、君を解放してくれるだろう」
彼の眼球が薬に向き、次に私を捉えた。彼の眼球は美しい。病に爛れ始めた皮膚と、穢れの無い黒と白の一点。その対照が私の世界を反転に揺らす。
「今日は大切な日なんだろう? 一時だけでも痛みが消えれば。そうは思わないかい、紀之介くん」
さあ、私を求めろ。私の薬に手を伸ばせ。彼はもう逆らえない。彼の病は私の味方だ。
彼は薬を手に取った。
私は、人が病に、痛みに、死に逆らえないことを知っている。生を求めて浅ましく薬をねだる姿を知っている。時には死ぬために薬をねだる姿も。私は医者だ。私は私が生きるために、善人面をして病を味方につけ薬を利用する。自らの業の深さを嘲笑うように、私は生きるために人を生かし、殺してきた。紀之介に、会うまでは。
紀之介は業の病に苦しんでいた。豊臣の医者として彼と出会った私は、その時初めて自分の職に感謝した。ああ、この聡い若者、反転した瞳で世界を見る若者、私の業を見抜いた業深き若者を意のままにする力を、私は持っている。
私は私が生きるために薬を使うことをやめ、彼のため、ひいては私と彼を繋ぐために薬を使うようになった。私が被っていた善人の面は、紀之介によって引き剥がされた。よって彼が私の人格についてあれやこれや言うのは筋違いだと私は思っている。暴いたのは彼だ。私は彼の前では浅ましい己を隠せない。
「ぬしのいうことを額面の通り飲み込んだわれもわれよ、愚かオロカ」
薬が効き始めた紀之介は、掌を握ったり開いたりしながら、ぶつぶつと文句を言い始めた。
「なにか不満があったかな」
「痛みを消すとは斯様な意味であったか、何に触れた心地もせぬわ」
「それでも、君は久方ぶりに痛みを感じていない。とても楽になっただろう?」
頷きかけた紀之介は、しかし私の顔を見て、ひくりと顔を固めた。ああ、私は今どんな顔をしているのだろう?
「お礼を貰っても、いいかな?」
「やれ、何やら物騒な臭いがするぞ」
「まさか。少し、君を抱きしめたいだけだよ」
一歩近づくと、彼は一歩下がった。しかし痛覚の効かない身体はうまく動かない。彼は無様に床に転がった。ああ、後で痣になってしまうだろう。可哀相に。私は慈しむように彼の身体を抱えた。
「君がずっと我慢していたものから、一時的とは言え解放してあげたんだ。私だって、普段我慢していたことをさせてもらう権利がある」
「思い上がるな、よ」
「君の痛みを想って、君に触れることを耐えていた私を褒めてほしいくらいだ」
「ぬしの愚かしさは時折、われの想像を遥かに越えよる」
「その言葉を褒め言葉として受け取らせていただこう」
「やれ、ぬしに塗る薬はないものか」
「私は死なないと治らないだろうね」
「救いのないうつけよ」
「お互い様さ」
ああ、良かった。なんだかんだで愚か者に優しい紀之介は、どうやら私を許してくれるようだ。軽口の応酬を終え、私は彼の首筋に鼻を埋めた。触診のため露わにさせた上半身に掌を這わせる。ねっとりとした膿に、私の指が沈む。まるで同化していくかのような感覚に陶酔し、大きく息を吸い込んだ。病と汗の臭いがした。彼の脆い皮膚が、後でできるだけ痛まないように、そうっと身体を動かして出来る限り密着できる体勢を探る。爛れた肌と、痩せてきた肉、そして武人の骨格。その全てを取り込むかのように私は彼を包んでいた。
「……よ、ぬしは先程、『少し抱きしめたいだけ』と言わなかったか?」
「あれ、確かに心行くまで堪能してしまったね。不愉快だったかな?」
「ふむ、何も感じぬなあ」
空惚けた彼の口調に苦笑して、私は彼から身体を離した。
「薬が切れる前に、また投与すれば、ずっとそのままでいることもできる」
かたりと引き出しから薬を出せば、紀之介の目蓋がぴくりと引き攣った。
「しかし、痛みの無い時間を長引かせれば長引かせるほど、痛みが戻るときの苦痛は大きい。この薬はそういうものだ。いくらでもある。君が欲しいと言うときに投与しよう」
「要らぬ薮を突付かねば、蛇も出ぬものを」
苦々しく紀之介は吐き捨てた。副作用のある薬など初めから出すな、ということだろうと解釈する。
「医者とはみな、蛇を孕む薮のようなものさ。さしずめ君は、飛び入って来た夏の蝶かな」
「道化め、何を企む」
「なに、君を苦しめたいわけではない。私はただ、君に提示し、君に選んでほしいのだ。……蝶を絡め取る蜘蛛よりも、いくらか残酷かもしれないね」
「ぬしが何を以ってしてぬしを残酷と評するか、われにはとんと分からぬ。われに言わせれば薮などただのがらんどうよ。蛇など誰もが飼っている」
「君が、私の気持ちを解かってそんな事を言っているのかどうかが、私には解らないな」
「われにも解からぬなァ?はて、われはぬしをどれだけ解っているのか?興味がないな」
「薬は、要らないんだね」
「ああ、要らぬな」
「痛いんだろう」
「痛いな」
「それでも、痛いほうがいいのかい」
「そう我慢できぬ痛みでもない」
「そう」
時期を誤った。本来ならもう少し紀之介の病が進み、彼が痛みを耐えることに疲れた頃合にこの薬を出すべきだったのだ。我慢できる程度の痛みを消すために、彼も副作用のある薬など使わないだろう。しばらくはこの薬など無かったかのように振る舞おう。そして彼がもがき苦しむ時にでも投与してやればいい。そうすれば彼も、痛みと薬の狭間でもう少し悩んでくれるだろう。しかしこの副作用は考え物である。この副作用さえなければ、この薬は仮初の幸せではなく、ほんとうの幸せを彼に提示できる切り札となるというのに。しかし爛れた肌が元に戻るわけでもない。業の病に恐れ戦く周囲の反応が変わるわけでもなかろう。嗚呼全く、彼を幸せにするには私はなんと力不足であることか。
私は上から二番目の引き出しに薬をしまうと、三番目の引き出しを開けた。これもまだ、切り札とするには早い。しかし、いつでも提示できるようにしておくのも悪くないかもしれない。なにせ私は紀之介に様々な薬を処方するのが楽しくて仕方がないのだ。私はそれを懐に入れた。
紀之介は時折、己を不幸と評する。私も否定はしない。紀之介には幸福へ通ずる願望が何一つないからだ。見方に拠っては幸への布石となる要素も、紀之介は不幸への礎と為す。
紀之介は自分の不幸を自分で作り上げているのだ。
しかし、と、私は思う。
頭では、そんな人生もあると納得できる。己の不幸に酔いしれて幸から目を背ける人間を、医者である私は何人も見てきた。しかし。君はそれでいいのかい。聡い若者、反転した瞳で世界を見る若者、私の業を見抜いた業深き若者よ。他でもない君自身の生涯を、主観の全てを、不幸に捧げていいのかい。私は、君の生涯を惜しいと思う。私にとって君は特別だ。私は特別な君を不幸に捨てる気は無いのだ。君の不幸はあまりにも誇り高く、まるで君自信が不幸を好み、選んだかのような印象すら与える。けれど本当に君は幸せを望んでいないのかい。君が望めば、君は幸せになれるのではないのかい。
だから私は選ばせたいのだ。
懐に入れた薬は、彼を生から解放するための毒。
彼が「疲れた」と言ったなら、水に溶かしてやろうと思う。