原罪ヘミモルファイター
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ねっとりと暑い、夏の夜のことだ。膿と汗の混じった臭いが鼻を衝く。私の足元には紀之介。爛れた舌がつかえて息が出来ないらしい。ゼヒッ、ゼヒッという掠れた音が淀む空気を揺らす。
這い蹲る紀之介の顎元に、爪先を差し入れた。そのままぐいと引き、上を向かせる。かはっ、という音。気丈な紀之介は咳を抑えている。
馬鹿な紀之介。君の病状など、私には全てお見通しだというのに。
「薬を、欲しがれ。紀之介」
本人の口からねだらせなければ気が済まなかった。このまま強引に組み敷いてしまうのは簡単なのだ。抵抗など押さえつけて喉に押し込んでしまえばいい。
「要ら、ぬ」
腹立たしい。あまりにも腹立たしい。夜が明ければ戦だ。薬で鈍った身体で戦場へ出るわけには行かない。それがなんだっていうんだ。今この瞬間の快楽を求めるのが人間というものなのではないのか。
「君がそこまで頭の悪い人間だとは思わなかった」
、それ以上言えば……分かって、おろうな」
紀之介は私の足を支えにして立ち上がった。掴む指先が微かに震えている。
大谷吉継という名を戴き、彼は豊臣の将となった。生まれを考えれば大出世である。奇妙な術を使い、病などものともせず知略をもって戦いを制す。兵達にはそう思われているようだが、そんなことがあるものか。彼は毎夜こうして這い蹲っている。
自然と舌打ちが出た。顔を上げた紀之介の面布を捲り上げ、強引に唇に舌を割り込ませる。紀之介はぐいと腕を突っぱねたが、先程まで呼吸も出来ていなかった男の抵抗など痒くしかない。口内をこそぎ爛れた舌を吸い上げる。苦い塩の味。唇を離して拘束していた腕を解くと、ずるりと紀之介は寝具の上に腰を落とした。
懐から真新しい布を取り出した私は、それに吸い上げた膿と痰を吐き出す。紀之介は、呆れ果てたような顔で私を見上げていた。
「悪食よ。全く以って悪食よ」
「膳を据えたのは君だろう。呼吸は楽になったかい」
「涼むにはちと風通りが良すぎる」
「言葉遊びが出来るようなら大丈夫そうだ。今夜は隣に控えているから、何かあったら呼ぶんだよ。薬ならいつでも処方してあげるから」
「部屋に戻りやれ、薮医者。蛇の出ぬうちに」
素っ気のない言葉に自分の顔が歪むのを感じた。怒りなのか、悲しみなのか、寂寥なのかは判然としない。鼻の奥がつんと痛んだ。
「……君はいつまで我慢を続けるつもりだい」
「なに、瞬きの間よ。この世に星を降らすまで」
彼の言う『星』が何のことなのか、私には分からなかった。ただ漠然と、私が紀之介に望むものとは正反対のものなのだろうと感じる。

最早私は、彼の目標を阻む邪魔者でしかないのだろうか。彼の前に、甘い薬をちらつかせる私は障害だろうか。
「紀之介」
ならばせめて、
「その星は、私の元にも降って来てくれるのだろうね?」
引導は君の手で渡したまえ。
紀之介は白い瞳で微かに笑んだ。
「ぬしの悪食にはほとほと呆れ返る」
「誉め言葉として受け取らせていただこう」

彼はかつて、薮に囚われた蝶だった。身動きの取れぬまま蛇と睨み合う蝶だった。 しかし彼はもう非力な獲物ではない。蝶はやがて空へ飛び立ち蛇を殺すだろう。



その予想通り、半月後には豊臣の兵が私を捕らえに来た。反逆の咎だという。聡い彼のこと、私を生贄にはかりごとをしたのだろう。企みの裏で私を葬る鮮やかな手捌きである。やはり私は彼がいとおしい。
己の手を汚さぬ、あまりに彼らしいやり方に、私は微笑みを耐え切れずに罪を認めた。


牢獄にて、私に許されたのは書を残すことだけであった。紙と筆では何も出来まいと与えられた。私は師の名を書の中に残す。私の代わりに誰かが、紀之介に薬を遣らなくてはならない。紀之介とて、星とやらを降らすまでは薬も要るだろう。
惜しむらくは、もう紀之介には会えないということだ。私と薬を切り捨てた紀之介は、もう私などに目もくれずその道を歩むのだろう。かつて自分を迷わせた甘美な誘惑など、痛みの無い世界など、振り返ることはしないだろう。
しかし、私としてもわざわざ紀之介の手を汚したくはないと思っていたから、好都合だったのかもしれない。誰とも知らぬ兵に殺されるのも空しい話だが。


処刑の日の、夜明けだった。もう書き残すこともなく、退屈でたまらなかった私は、ぼんやりと空を眺めていた。赤い空だ。紀之介はなぜ鎧をあかくしたのだろう。血の色だろうか。そんなとりとめの無いことを考えていた。
だから、目の前に紀之介が現れても、夢か幻だと思ったのだ。
よ」
「……紀之介くん?」
彼は身体中にびっしりと包帯を巻いていた。芳一の経のようだと思った。紀之介ならどこを取られるだろう。私なら眼球を取るなと思った。彼のうつくしい瞳を冥土の土産にできたら、道中もどんなに楽しかろう。
「ああ、紀之介くんの目は……ほんとうに、うつくしいなあ……」
「また、愚にもつかぬ事を考えているのか。よ」
「…………ほんもの……?」
「やれ、ぬしまで我を物の怪と称するか?」
「どうして」
まさか、会いに来てくれるなんて誰が思っただろう。きっと彼は私をなかったことにして、星の降る場所にひとり向かうのだ。そう思っていたのに。
「それは我の台詞よ。よ、何故泣く。我が憎くて泣きやるか」
「君が、来てくれたから」
「解せぬな。悪食も悪食よ。ぬしは蓼虫ではないのか」
「そうかもしれない。もう医者ではないから、なんでもいい。でも蓼虫なら蝶の紀之介とおそろいだね」
「その馬鹿も、死ねば治りやるか?」
私は俯いて小さく笑った。紀之介は私に責められに来たのだろうか? そうだとしたらなんと愚かしいことだろう。こんなにも、聡い子なのに。責めるものか。恨むものか。
何も言わずに死ぬつもりだったが、せっかくこうして会いに来てくれたのだ。死人の戯言として、聞いてもらおうと思った。
「紀之介。……私は、君に幸せになってほしかった。幸せを望んでほしかった。けれど君はそれを、望まないのだね」
「ぬしの言うことが、我にはとんと分からぬ。ぬしは我に、燃え盛る天道をこの手に掴めと言うのか? 業火に焼かれて燃え尽きよと?」
「紀之介、違う。私はただ」
よ」
紀之介は私の言葉を遮った。包帯の巻かれた腕が、ぬらりと鉄格子をくぐり、私の目元をなぞる。
「我はもとより地を這う蛆よ、伸ばす腕など持たなんだ」
「そんなことない。紀之介が幸せになれないなんて、そんなことがあるわけが、そんなことが許されるわけがないんだよ」
「もう辞めよ、
紀之介のてのひらが、私の目を覆った。直前に見た紀之介は苦しそうに私を見ていた。ああ、いつだって、あんなにも痛みに耐えていたのに。こんな時に、そんな顔をするなんて。
「我を責めよ。我を怨め、我を呪え。我はぬしを切り捨てた。ぬしも我を切り捨てよ」
「君の言うことが、私にはとんと分からない。君の何を恨めと言うんだい? 君は私の世界を反転させた。反転した私にとって、君がどれほどいとおしく、大切だったか」
「……左様か」
紀之介は立ち上がった。再び痛みを堪えるような一瞥をくれると、ゆっくりと踵を返す。
「大谷殿。私に掛ける情けがあるのなら」
私は彼の背中に向かって、彼の新しい名を呼んだ。私がもう医者ではないのと同じように、彼もまた、もはや紀之介ではないからだ。
せめて、それが彼の星だというのなら、彼が見つけた希望だというのなら、私の元にも降らせてほしい。
「最後に水を一杯、いただけないだろうか?」
彼にその心は伝わっただろうか?





反逆を図った医師が、牢獄で自ら命を断ったという知らせを聞いた大谷は、ただ「左様か」とだけ言ってくつくつと笑んだという。