暗い湖に杖が浮いている。魔力を孕んだ樹の欠片は、薄く水を弾いて闇夜にぼうっと光っていた。
私は自分の杖をかざす。共振する楡。「アクシオ」私は小さく呟いた。
二本の杖を掌で転がしながら、入り組んだ廊下をスリザリン寮へ。道中、気の弱そうな下級生とすれ違った。「君」私は声をかける。
「ひっ、な、なんでしょう」
怯えたように、彼は振り返った。人がいるとは思わなかったのかもしれない。いつもなら、たしなめなければならないのだが、今回は少し事情が違う。
「談話室にこれを置いてきてくれる?」
「へ、これ、」
「スリザリン生の忘れ物よ。私は寮には入れないから、お願いね」
下級生の手に杖を押し付けた。口止め料として蛙チョコレートのレアカードを一枚。この下級生がコレクターでなくても、欲しがる人は多いから何かと役に立つだろう。
「レイブンクローの生徒が、このあたりをうろうろしていたのは内緒よ」
「えっ、えっこれ、あの、」
踵を返す。誰にも見つからないうちに。スネイプにも、ポッターにも、ブラックにも。
「自分の杖を取られるなんて、魔法使いとして失格だよな」
聞こえたのは嘲笑だった。悪意の匂いに不快を感じ、私は振り返る。湖のほとりに、幾人かの男子生徒がたむろしていた。
「あいつ、いつ気付くと思う?」
「賭けるか?」
ポッターとブラック。それくらいは、ホグワーツの動きに鈍い私でも流石に知っている。学校一、二の有名人だ。魔法使いの杖を奪うような奴らだとは存じなかったが。
「その杖、どうするんだい」
少し離れたところで見ているのはルーピンだ。同じ監督生なのでこちらは少しはよく知っている。彼はあまり興味がなさそうだ。
「スネイプの杖なんて、いつまでも持ってたら、まずいんじゃないかな。いや、減点とかじゃなくてさ。闇の魔術でもかかってそうじゃないか」
もう一人の名前は覚えていない。Pっぽい名前だった気がするので仮にPとする。
Pの言葉に、ポッターが顔を顰めた。「捨てちまおうぜ」。Pはヒッと息を飲み、ルーピンは小さく眉を歪ませた。ブラックは笑う。「それがいい」。
だから私は夜の湖に浮かぶスネイプの杖を、ひっそりとスリザリンに返した。
それから私は、ポッターとブラック、そしてスネイプの動向に注意を向けるようになった。純粋に不快だったからだ。
そのうちPの名がペティグリューだということ、ルーピンは時折ポッターとブラックを諌めるような発言をすること、しかし決して強く止めようとはしないこと、などが分かった。
そしてリリー・エバンズという少女が、彼らのスネイプに対する言動を頻繁に咎めていることも。
情報を収集しながら、私は今日も彼らによる不快なショーを回避するためにホグワーツの廊下を歩く。
スネイプの昼食に魔法をかけて鉤鼻をさらに大きくしようとしていたので、転んだふりをして全てひっくり返した。
ポッター達とスネイプが顔を合わせないように足止めをした。
マルフォイがスネイプの側にいるときはポッター達も手出しをしないことが分かったので、マルフォイの方を誘導する術も覚えた。
ポッター達がスネイプの持ち物をくすねれば、私がこっそり元の場所に戻した。
私はレイブンクローの監督生として万事そつなくこなしたので、今のところ誰も気付いている様子はない。
「おい、スニベルス!」
私は自分の出した成果に満悦していたので、うっかりこのような場面に出くわしてしまったときには思わず舌打ちをした。私は廊下、彼らは裏庭、窓の外。うららかな春の真昼のことだ。
「これ、なんだろうな?」
「……っ、返せ!!」
ブラックはノートのようなものを掲げていた。スネイプが杖を取り出す。ポッターも取り出す。
スネイプも、ポッターも、ブラックも、みな学年トップクラスの実力者だ。2対1なら2が勝つ。
ポッターとスネイプの魔力が拮抗する。ノートが宙に浮かぶ。手が空いたブラックも杖を取り出した。
ノートが、宙でパラパラパラと繰られていく。春の青空を背に暴かれていく黄ばんだ紙の連なり。
「そんなに見られたくないのか?食堂にでもばら撒いてやろうか!」
「ふざけるな!!」
「見ろよジェームズ!あいつの顔!」
心地よい春の日だった。図書館の古い本の匂いに包まれて昼寝でもしたら最高であっただろう。それを今、こうして彼らを見下ろしている。不快だ。たまらなく不愉快。
いつものように、偶然を装った妨害を考える余裕もなかった。私も私で激昂していた。楡の木製の相棒を窓から突き出す。
「インペディメンタ、インセンディオ、オブリビエイト」
不意打ちなら3人とも無抵抗に食らうだろうという自信があった。閃光は直撃。ノートが燃え上がる。私は杖をローブの下に隠し、サッと身を翻した。
ばれていない。気付かれていない。そう思った瞬間だった。3人から距離を置いて傍観していたルーピンに気付いたのは。こちらを見ていた。
「少し、いいかな」
「いいわよ、来ると思っていたから」
ルーピンが声をかけてきたのは、次の日の魔法薬学の授業でだった。グリフィンドールとレイブンクローの合同授業ぐらいしか、私たちの接点はない。
「昨日のは、君?」
「そうよ。できるなら誰にも言わないでほしいのだけれど」
「それは構わない。けれど」
ルーピンは小さく言葉を詰まらせた。僅かに視線が泳ぐのを私はただ見ている。
「昼食をひっくり返したのも、君だったね」
「記憶力がいいのね」
「君はスネイプの友達なのかい」
「いいえ。話したこともないわ」
「じゃあ、ジェームズやシリウスと何か?」
「それもないわ。やっぱり話したこともない」
「じゃあどうして」
「単に不愉快だから」
「……じゃあ、僕も、不愉快かい」
「ええ、不愉快ね。そんなにポッターやブラックが大事? あれを見過ごしてまで? 私だったら友人でも恋人でも、家族でも幼馴染みでも、あれを見たら諌めるか縁を切るわ」
「……そうだね。大事だ。きっと正義よりも」
「不愉快だわ。でも貴方なら、秘密は守ってくれるのでしょうね」
「あえて話す必要もないよ」
「今後、あの2人が目に余る行動をしたら私に教えてくれないかしら」
「だが」
「あの2人に害を与えるようなことはしないわよ。今までどおり、転んで食器をひっくり返すだけ」
「……約束しよう」
「貴方にとっても悪い話ではないでしょう? これで良心の呵責を感じずに済むのだから」
言いながら口の端が上がるのを感じた。流石に意地が悪いなと反省する。ルーピンは答えなかった。
ルーピンの助力が加わったことにより、私の情報収集はさらにはかどった。さらにいろいろなことが分かった。
ポッター達はホグワーツ内の秘密通路のほぼ全てを熟知している。先日スネイプの杖をくすねたのも、その通路を使ってのことらしい。
スネイプとエバンズは幼馴染みである。そして私の見解によれば、スネイプはエバンスに恋慕の情を抱いている。
ポッターもまた、エバンスを好ましく思っており、それもまたポッターとスネイプの溝を深めている。
スネイプは闇の魔術に手を出している。素質があるのか、その実力は驚くべきものである。
ルーピンは月に一度、ホグワーツから消える。そして大抵の場合、後を追うようにポッターとブラック、ペティグリューも消える。
思った以上に、ホグワーツでは様々なことが起こっているようだった。私は同じ学年に人狼がいることも、未登録のアニメーガスがいることも、死喰い人見習いがいることも知らずにこれまでを過ごしてきたのかと思うと、とても損をしたような気持ちがした。
隠し通路を音を立てずに歩きながら、私はいつの間にか日常になってしまったこの行為について考える。
恐らく、私はスネイプに同情し始めているのだろう。彼は私と同じ匂いがする。価値を取り違えているのだ。実力こそが人間の価値だと思っている。それは私も同じだ。私は性格が悪く、器量もよくない。当然のように友人も少ない。誇れるのは成績だけ。
異常なまでに高いプライドは、欠けた部分の裏返しだ。と、そこまで考えて、思わず苦笑する。ほら、こんなにも同一視してしまっている。
最初は私は、自分に不利なことをしてまでポッター達を妨害しようなどとは考えなかった。それが今はどうだ。深夜に寮を抜け出し、危険を顧みずスネイプの課題を回収してきた。
スリザリン寮の入り口に近いところで、私は隠し通路を出る。肖像画の方へ向かい歩き出したところで、影はするりとガーゴイル像から姿を現した。
「お前か」
光源のない廊下で、黒いローブの下、微かに光る瞳で私を睨み据えるのはセブルス・スネイプその人だった。
さすがの私も息を飲む。これまで順調すぎたので、油断していた感は否めない。
「気付かれていないとでも思っていたのか? 舐められたものだな」
言葉に込められていたのは、絡みつくような悪意だった。憎悪だ。彼は助けなど求めていない。違う。助けを求めていることなど認めない。
「僕を憐れんで、高みから施しをして、聖者にでもなったつもりか。偽善者め」
私は彼を憐れんでいただろうか。施しのつもりだっただろうか。答えはノーだった。……『だった』。
ルーピンに答えたのと同じように、「単に不愉快だから」と答えればいいのだ。分かっている。それもまた真実だった。
「ごめんなさい」
けれど結局、私にはそれしか言えなかった。ただただ罪悪感だけがあった。
「どういう意味だ」
スネイプは噛み付かんばかりの剣幕で私ににじり寄る。
私は彼を憐れんでいるだろうか。答えはイエスだ。なぜ彼がこのような仕打ちを受けなければならないのか分からない。私でも良かったはずだ。寮一番の秀才。根暗でプライドが高く、人を見下して寄せ付けない。条件は同じだ。ただポッターの気に障ったのがスネイプだった。それだけのことで。
「ごめんなさい」
だから私にはこの言葉しかなかった。彼のプライドを知りながら踏み躙ったこと。彼のためにこんなくだらない行為しか出来ない自分。同じ条件を持ちながらのうのうと快適な学生生活を送っている自分。
「……失せろ。二度と僕の前に姿を現すな。僕に関わるな。僕を憐れむな。僕を助けようとするな」
私は彼の言葉に従うべく、彼に回収した羊皮紙を押し付けて踵を返した。心の裡でだけもう一度つぶやく。ごめんなさい。
私は二度と彼の前に姿を現さないだろう。けれどこれからも私は彼に関わるだろう。彼を憐れむだろう。彼を助けようとするだろう。それはただのエゴだ。分かっていた。分かっている。
「最近、静かだね」
「いろいろあったのよ」
図書館で一番日当たりの良い席を確保していたら、隣にルーピンが陣取ってきた。日陰と日向の境目だ。過ごし辛かろう。
「いろいろと言うのは」
「スネイプ本人に怒られたわ。余計なことをするなって」
「そうか」
ルーピンは目を伏せた。最近は彼の立ち位置も分かってきた。以前は日和見な彼を責めたが、今となってはそうも言っていられない。結局それだって、ポッターとブラックが悪いのだ。2人が彼に「何があっても見捨てない」ということを言葉と行動で示せば彼も、もう少し、
「君は最近、変わったね」
「……貴方に言われるほど、貴方と関わっていないわ」
そんなことを考えていたところのルーピンの言葉であったから、多少居心地が悪い。
「そうかもしれない」
「それに、貴方達があんなことをしなければ、私は今も昔と変わらずいたでしょう。少しも良いことではないわ」
「それはそうだ」
彼は少し笑ったようだった。笑えるようなら彼はそれでいいのだろう。自分のことで手一杯な人間に、他人のことに口を出せと言うつもりもない。私は確かに変わったらしい。
「君は、スネイプのことが好きなのかい」
「そう見えるかしら」
「少しね」
「たぶん、そういうものではないと思う」
「そうか」
一瞬だけ、そうなのかもしれない、と思ってすぐに打ち消した。それはあまりにも失礼だと思った。やはりこれはただのエゴだ。
それからも私の行動は変わらなかった。学生生活の合間に、スネイプの周りの掃除を続ける。スネイプも気付いていただろうが、何も言わなかった。無かったことにしてくれた方が私もありがたい。
続けることは私の意思表示でもあった。スネイプに「やめろ」と言われて素直に辞めれば、スネイプのためにやっていたことになってしまう。私は私がやりたいからやるのだ。
そして季節が過ぎ、ポッター達は少しだけ大人になり、エバンズとポッターが付き合い始めた。私の周りは静かになり、スネイプと私の接点はなくなった。良いことだと思った。
卒業が近付いてきていた。スネイプは本格的に死喰い人になるようだ。一度だけ、廊下ですれ違った時に我慢できず「考え直したら?」とだけ問うた。答えは無言の威嚇だった。私がもっとうまくやっていれば、私の発言はもっと彼に響いていたかもしれない。その時初めて、少しだけ後悔した。
私も就職が決まった。ルーピンも。他も着々と、この箱庭から出て行くための準備を進めていた。私にとってはあまり愛すべき箱庭では無かったが、同級生がふと涙ぐむ瞬間なども目にしたので、陳腐な表現ではあるが青春は確かにあったのだろう。
「君への密告をすることも、もう無いんだね」
ルーピンは笑った。スパイだの密告だの、そんな自虐的な表現をできるようになっただけ彼は成長したのだと思う。最早見下せるような人間ではない。私のほうが小さかった。
「ようやく解放されるのかと思うと、せいせいするわ」
「本当に?」
「本当は少し……いろいろ、後悔しているけれど、やっぱり私はやりたいようにやったから満足するべきなのよ」
「もう一度、聞いていいかい」
「何かしら」
「君はやっぱり、スネイプのことが好きなのではないかな」
私は少しだけ考えてから、答えた。
「たぶん、そうとう好きなんでしょうね。でもだからと言って、どうということはないわ」
「伝えないのかい」
「怪我の手当てをした小鳥に、重りを付けて放すような酷い人間ではありたくないの」
「そう」
卒業してから、スネイプはどんな人生を送るのだろうか。日の光など知らぬまま、これからもずっと生きていくだろうか。
彼がここでの日々を思い返すとき、その思い出はどんな色をしているだろうか。きっととてもどす黒く、重たく、吐き気のするようなものだろう。
そんな日々の中に、私のような物好きの変わり者がいたことを、彼は覚えていてくれるだろうか。
覚えていてくれなくてもいい。不愉快であれば忘れてくれても構わないから、彼の思い出に少しの陽だまりがあればいいと願った。