原罪ヘミモルファイター
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女性が泣きながら叫んでいる。呼んでいるのは我が子の名前だ。「リーマス、ああ、そんな!」
恐怖に目を見開いた少年に牙が迫る。嫌な匂いの息が少年にかかる。私はただそれを見ていた。
父親らしき男性が、思わずと言った体で目を背けた。少年の悲鳴と女性の嗚咽、そして周囲から上がる哄笑。

私はただそれを見ていた。

場面が変わる。私の目の前には血塗れの少女が一人。少年は蒼白な顔で立ち尽くしてそれを見ている。
「僕は、なんてことを」
朝日が昇っていた。少年はただ茫然と倒れた少女を見つめていた。私はただそれを見ていた。

再び場面が変わる。そこからは幸福な場面が続いた。
彼には友が出来た。また傷付けてしまうのではないかと恐れる彼を、友人達は笑い飛ばした。彼の秘密の全てを笑い飛ばした。
そして彼らは、傷付け合わずに済む方法をとうとう編み出した。満月の夜が彼らを引き離すことはなくなった。

彼はぽつりと呟く。
「僕は、幸せという言葉の意味が、今なら分かるような気がするよ」
私はただそれを見ていた。その後に起こる悲劇を知りながら、ただ見ていることしかできなかった。

人狼だと知ってなお、自分に近付くことをやめなかった彼ら。
越えられないと思っていた境界を軽々と飛び越えてきた友人。
どれだけの人を傷付けてきたか、決死の思いで告白しても、彼らは受け入れた。
誰かに受け入れられる喜びを知り、誰かを傷付けずに済む安心を知った。

そして、ルーピンは裏切られた。
彼は裏切られた。幸せを教えてくれた友に裏切られた。幸せは嘘になった。彼の生涯の中で、唯一の幸せは、その瞬間嘘になったのだ。

そしてやはり、私はただ見ていることしかできなかった。

「ああ、私では、貴方を救うことはできない」

この言葉もきっと、彼には届かない。





ルーピンが、ホグワーツの教師になると聞いた。それを聞いた私は、何かを考える前に、彼に会いに家を出た。


?」
「お久しぶりね、ルーピン」


何の約束もなく尋ねたので、会えなくても仕方がないと思っていたが、幸運なことにルーピンは私を出迎えた。
「ホグワーツに行くと聞いて、餞に来たのよ」
「ああ、なるほど。わざわざありがとう」
普通に考えたら迷惑だろうに、ルーピンは穏やかな笑みを浮かべる。最後に会ったとき、ルーピンはひどく辛そうだった。いつの間に、こうして微笑めるようになったのか。
「忙しいでしょうに、ごめんなさいね。少し、話をしたくなって」
「そうだね。とても久しぶりだ。懐かしいよ」
懐かしい、というのが、私がなのか、それともホグワーツでの日々がなのか、と勘繰る。どちらにせよ、どうということはないのに。
「少し、お茶でも飲んでいくかい?来週には発たなくてはいけないからね、すこし散らかっているけど」
その言葉に甘えて、私は彼の住処に足を踏み入れた。
私の前を歩く、ルーピンの後姿をじっと見る。最後に会ったときより、白髪が増えた。

そして自問自答する。私はなぜルーピンを尋ねたのか。ルーピンの、どんな姿を見たかったというのだろう。あの頃のまま、憔悴しきった彼だろうか。それとも過去を振り切って、朗らかに笑う彼だろうか。それとも今のように、どこか遠くを見るように、乾いた微笑を見せる彼だっただろうか。

砂糖とミルクは入れるかと訊かれ、首を横に振った。旅立つための準備を、着々と進めている部屋の中を見回す。
ふと、石造りの水盆が目に入った。私は思わず息を呑む。

――――憂いの篩だ。

捨てるつもりなのか、乱雑に積まれた物の中に埋もれている。水のような煙が、まだ中でゆらゆらと揺れていた。あの中には、ルーピンの憂いが閉じ込められているのだろうか。彼はあの篩に、何を吐き出したというのだろう。

「茶菓子になるようなものでもあれば良かったんだが…済まないね」
「いいえ、私が急に来たのが悪いのよ。時間をとってくれてありがとう。ねえ、あそこにあるものはみな、捨ててしまうの」
「ああ、あまりたくさんの物を持ってゆくつもりもないからね」
「ホグワーツに戻るのは……どんな気持ち?」
「……君はいつも、容赦がないな」
ふふ、とルーピンは笑った。どうして彼は笑うのだろう。いつだってそうだ。彼の胸から込み上げるものはきっと喜びや楽しさばかりではないだろうに、記憶の中の彼はいつも微笑んでいる。
「正直、少し怖いよ。十年経っても、まだね。ハリーもいる。けれどダンブルドアが私を必要としてくれるなら、私は応えたいんだ」
そう、十年も経ったのだ。
私はあれから、必死に全てを知ろうとしてきた。不自然な事実を受け入れなければならないのが不愉快だからだ。そう言えば彼はまた笑うだろうか。真実は真実でなければならないのだ。全ての事象が像を結ばなければ、全ての真意は見えてこない。私にそれを教えたのもまた、皮肉なことにホグワーツでの日々であり、彼とその友人達であったはずだ。
「恐れることなど何もないわ。世界は貴方の敵ではない」
「君は……恐れを知らないね。何かが分かったのかい」
「貴方が立ち止まっている間に、私はたくさんのことを調べた。ポッターの死についても、ペティグリューの死についても」
「それで尚、君は、世界は私の敵でないと?」
「貴方が痛みを恐れて、大切なことから目を逸らしているうちは、何も言う気はないわ。……でも、きっと貴方が望むと望まざるとに関わらず、貴方は知ることになるのでしょうね」
ブラックがアズカバンから逃げた。昨日の新聞には、大きくその記事が載っていた。彼はホグワーツへ向かうだろう。真実を真実にするために。そしてルーピンも、真実を知ることになるだろう。彼は安堵し、同時に傷付くだろう。
「覚悟を決めておくといいわ。きっとあなたはブラックと対峙することになる。ダンブルドアもきっと、そのために役者を揃えたのでしょう」
「ダンブルドアも……真相を?」
「ええ、きっと」
正直に言えば、私はダンブルドアのやり方は気に食わない。ヴォルデモート卿に対抗するための布石を整えているのは漠然とだが、分かる。しかしそのためにも犠牲が必要なのだ。傷を癒す振りをして、たくさんの人の傷跡を抉り、噴き出した悲しみを平和の原動力にするのだ。それが一番効率の良いやり方だとしてもやはり、私は嫌悪する。
どうして勇敢な人ばかりが傷付いて、尚戦わなければならないのだろう。くだらない大勢の人間のために?
みなヴォルデモート卿に蹂躙されて死に行くのが、大きな世界の流れだというのなら、それも致し方ないだろうと私は思うのだが。
「それなら、私は覚悟を決めなければならないのだろうね」
ああ、ルーピンもまた、生贄なのだ。傷付いて尚立ち上がる強さを持ってしまったばかりに、彼は傷付けられ、立ち上がってはその強さを利用される。
折れてしまえば良かったのだ。友に裏切られ、嘆き、世界を恨めば良かったのだ。そんな、悲しみも怒りも遠くに置いてきたような瞳で微笑むくらいなら泣けばよいのだ。
それとも、忘れてしまえば良かったのだ。友に裏切られたことも無理やりに忘れて、逃げて、なかったことにしてしまえばよいのだ。
ブラックのことを信じ切れなかった弱い人間なのに。どうして立ち上がってしまうのだろう。私は彼が眩しい。

「ほんとうに、それでいいの。貴方は十分傷付いた。もう一度傷付きに行く必要なんてないじゃない」
、さっきと言っていることが逆だよ」
「……、それは」
私は思わず俯く。自分で自分が分からなかった。私はルーピンの、どんな姿を見たかったというのだろう。
「君が、私の事を心配してくれているのは分かるよ。けれど」
「……心配、していたのかしら、私は」
「かつての私の傷を、そして、これから傷付く私を心配してくれたんだろう。大丈夫、分かっているよ。君は優しい。眩しいほどにね」
「……ただの野次馬根性だわ」
「誰かを思い遣るとき、君はいつもそう言うね」
たとえこれが、ルーピンの言うような感情だったとして、それが何になると言うのだろう。私に何ができると言うのだろう。彼の視線から逃げるように、私は再び部屋を見回した。
「……ところで、あれを全部捨ててしまうのなら、少し見せてもらってもいいかしら? 何冊か気になる本があるわ」
「ああ、構わないよ。欲しいものがあったら、持って行くと良い」
立ち上がり、積まれて塔になった本を掻き分けながら、私は部屋の隅へと足を進める。陽だまりの中を埃が泳いでいた。
家具はどれもみな使い込まれていたが、その割にはどこか余所余所しかった。ああ、ルーピンの部屋なのだな、と思う。
本の背表紙を覗き込む振りをして、そっと『憂いの篩』に手を伸ばす。

ごめんなさい。

心の中で一言呟いて、私はそこに仕舞い込まれた記憶を抜き取った。
ただの野次馬根性だ。酷い行為だと分かっていながら、それでも私は、彼の記憶に土足で踏み込む。




「今日は話し相手になってくれてありがとう。ホグワーツでも頑張って。あなたなら良い教師になれるわ」
「いや、こちらこそ。そう言ってもらえるとありがたいよ。君の顔を久々に見られて懐かしかった。また会おう」


帰り道、夜空を行きながら、私は篩から抜き取った記憶を、ルーピンが仕舞い込んだ憂いを見た。
それは学生時代の友の笑顔であり、軽口であり、冒険であり、そして今となってはまやかしだった。



どうして、彼は笑うのだろう。泣けばいいのだ。そんな諦めた瞳で、何もかも遠くに置いてきたような瞳で微笑むくらいなら、泣けばいいのだ。
みっともなく誰かに縋りついて、嘆いて、喚いたって良かったのだ。

「ああ、でも」

誰に縋り付いたって、その人はポッターの代わりにも、ブラックの代わりにもなれないのだ。
それはルーピンの全てだった。唯一の喜びであり、安心だった。赤子が生まれて初めて出会った母親のような、それくらい絶対的な存在だった。


だから、私ではあなたを泣かせてあげられない。

風が強く吹いて、私は顔を伏せた。少しだけ、鼻の奥がつんと痛んだ。