原罪ヘミモルファイター
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瞬きすら忘れて、俺は液晶を凝視していた。そこには俺の番号が、確かに、ある。信じられなくて何度も見直したが、やっぱりある。
震える手で携帯を開き、一瞬の逡巡の後、受信メールの一番上のメールを開いた。相手の名前を見てみると神尾。この際神尾でいい。

『橘さんと同じ大学、受かった』

そう、送った。
返ってきたのは、

『やったな!!!』

膝の力が抜けて、思わずしゃがみこんだ。そうだ。普通に考えたら志望校に受かったんだから、良い事だ。もし落ちたら親に要らぬ負担をかけることになるし、落ちたらどうするかの準備なんてしていない。

深呼吸して、気持ちを少し落ち着けた。もう一度受信メール欄を開き、今度は1人の名前を探す。

『受かった』

一言だけ送れば、

『馬鹿』

と一言だけ返ってきた。

心得た様子の返信に少しだけ息を吐けば、緊張の糸が切れたらしく眠気が襲ってくる。もうどうにでもなれと思う間もなく、俺はソファに上体を倒した。




橘さんへの依存が、いよいよやばくなってきたと気付いたのは高校一年の春のことだった。
中学三年の一年間は、橘さんがいなくなって寂しいな、などと屈託なく口に出せる神尾達が隣にいたし、学年が一つ違うのだからこの一年間は離れていて当然なのだと割り切れたのだ。
そこで、もう橘さんに甘えなくても大丈夫だと判断したのがいけなかったのか。
俺は橘さんとも、神尾とも、とも違う高校に進学した。元より東京には高校なんて腐るほどある。合わせる意思がなければ偶然などありえないのだ。
そして高校生活を始めてみれば、ひと月とせず焦燥感が襲ってきた。本当にこれでよかったのかと気付けば自問自答している自分がいた。
俺に気を回したは、「最近会ってなくて寂しいから久々に集まろうよー」などと白々しいメールを送って頻繁に俺達(橘さん含む)を集めては、「高校生になって急にしおらしくなった」などと揶揄されていた。皆の予定が合わない時は、俺とで延々向き合ってぼやきを垂れ流し続けた。

新しい学校に馴染もうとすら思えなかった。そもそも神尾が俺にしつこくまとわり付いていたのも、橘さんが目を掛けてくれたのも、全て俺からの働きかけは皆無だったのだ。それでああして仲間とつるんでいられたのだから、自分の環境が恵まれていたのだと今頃気付く。

神尾はあの性格だから、高校でも毎日が楽しくて仕方がないらしい。その神尾から、杏ちゃん経由で聞かされる橘さんの近況は俺の心を重くさせた。橘さんだって、俺達みたいな後輩の世話から解放されて、自分と同じくらいの実力の仲間とテニスができて、楽しそうだ。
もそりゃあ、女友達といるより俺達とつるむ方が気が楽だと口では言うけど、人付き合いが下手というわけでもない。俺のことさえなければ中学の連中をわざわざ誘うこともないだろうと思えた。
結局俺だけが取り残されて、歩き始めようともせず、誰かが戻ってくるのを待っているだけだ。

橘さんがいたら。その言葉が、泡のように脳裏に浮かぶ回数が増えていった。打ち消しても打ち消しても、事あるごとにまた浮上する。

「何がどうなってこうなっちゃったの」

一度、が呆れたようにそう零したことがある。

「橘さんが『絶対』じゃないことなんて、伊武だって知ってるでしょ」
「知ってる」
「なのになんで、そんなに伊武の中で大きくなっちゃったかなあ……」

知ってる。橘さんが絶対じゃないことなんて。橘さんだって俺達とそう年の変わらない人間で、実はわりと攻撃的で保護者役なんて向いてなくて、それなのに1人で部長の仕事や、普通なら顧問がやるような仕事、それに加えて俺らみたいなうるさい連中の面倒まで見ていた。そんなの負担だって分かってる。安易に甘えていい人じゃないことぐらい知ってる。

「もうね、『安易に甘えていい人じゃない』っていう表現からして完全に絶対視してるよね。橘さん基準の損得勘定で動いてるよね」
「今のの何がいけないんだよ……」
「考えすぎなんじゃないの? 神尾みたいに素直に」
「素直になった結果負担かけるに決まってるじゃん……でも橘さん優しいから面倒見てくれるからどんどん負担かけるに決まってるじゃん……橘さんは絶対俺らに負担かけないようにしてくれてたのに俺らが負担かけたらだめだろ。そんなの橘さんの後輩でいる資格ないだろ」
「知らないよ橘さんの後輩がなんぼのもんだよ。資格いるのかよ。いやまあ、私マネージャーだから見方が違うのかもしれないけど。私と橘さんは普通に分担してたし」
「……なにそれ」
「ちょっと待って伊武うわ今の顔怖っ!嫉妬とかされても困るんですけど!」
「……嫉妬」
「でしょ」
「キモ」

吐き捨てるように呟く。ただの先輩と後輩なのに。っていうかと橘さんなんて別に仲良くもなんともないし。そりゃ同じ部活の仲間としての括りでは仲良いけど個人ではそんなに喋ったりするところを見たことがない。なのに嫉妬って。どれだけ冷静じゃないんだ。

「……っていうかー、うーん、素直になった結果負担かけるってことは、本心は負担になるような接し方したいの? 橘さんの負担を度外視したら、どんな風に接したいと思ってんの」
「…………俺キモい重たい……マジ死ねよ……」
「何を想像したの!?」
「橘さんの一番でいたいとか」
「えっ」
「中学時代のままなら俺達の橘さんだし橘さんの俺達だし、俺が橘さん尊敬してても不自然じゃないし橘さんは俺達にかかりっきりだしテニスさえ上手ければ一緒にいられるし褒めてもらえるし。それでこれだけ甘えておいて頼りにされないから拗ねてるとか最低じゃん……こんな奴に頼るわけないじゃん。そりゃあに頼るよ橘さんだって馬鹿じゃないんだし。っていうかあんな太陽みたいな人をブラックホールに引きずりこむような真似して何考えてるわけ? たまたま部活が一緒だったから面倒見てくれてるだけで俺みたいな根暗そもそも相手にされてるのが奇跡じゃないかなあ。橘さん優しいから引かないでくれるけど。引かれたら立ち直れないし。引かれたら立ち直れないとか何期待してるんだよ引かれて当然だろ馬鹿じゃないの……」
「う、うん……うん……うん?あの、つまり一番でいたいっていうのは」
「一番よくできた後輩」
「……って、意味ですよねー良かった……」
「良くないよ何高望みしてるんだよ最低」

最近はと会うと終始この調子だ。最初は話のネタを提供していたも、俺の思考がどうにも橘さんから離れないことを悟ったらしい。

「大学、どうするの?」
「さすがに大学まで追いかけて行ったらまずいだろ……キモイし」
「いやキモくはないだろうけど。橘さんの気持ち的には喜んでもらえると思うけど、あんたの気持ちとしてどうなのよ。橘さんと同じ大学行って大丈夫なの」
「大丈夫って何が」
「同じ学校にいれば安定するの?それならいいけど、また甘えたい甘えたくないでぐるぐるするの目に見えてない?橘さんだって新しい友達いると思うけどそういうの見て大丈夫?」
「……駄目かもしれない俺死ねばいいのに」
「死なないで死なないで。だから、伊武の人生を長い目で見たら、ここで橘さん追っかけたらまずいと思う、私は」
「……それは……そうかもしれないけどさあ」
「まだ願書出すまで時間あるし。別の大学行く方向で検討した方が良いよ。それで、どうしても、どうしても橘さんと同じ大学じゃないと駄目だって思ったときに変えればいいよ」
「…………」

の言う事はもっともだと、頭では分かってはいたけど、お前までそうやって突き放すのかみたいな気持ちになっててまた俺最低だなと落ち込んだ。
橘さんを追いかけてもいいよ、甘えてもいいよとでも言って欲しかったのか。が軽々しくそんなこと言えるはずないのに。これは関係ない橘さんまで巻き込んだ俺の問題で、それに口出しできる立場じゃないまで俺が巻き込んでいる。死ねばいいのに。


実際俺が依存してるのは橘さんだけじゃなくて、や神尾にすら甘えているのかもしれないというのはうっすら気付いている。唯一高校生になって成長した点と言えばそれくらいだ。
がいつでもこうして俺に合わせてくれるから、神尾がいつでも深司マブダチ!と顔に書いた状態でいてくれるから、ぐるぐると深みに嵌まることなく安定して依存していられるだけで。
それで安心して、「神尾って本当に馬鹿だよね」とか「って暇人だよね」とか反吐が出るような性格悪い毒を吐いている俺を見捨てないこいつらも大概馬鹿なんじゃないかと思うけど俺はそんなこと言える立場じゃないのも知ってる。

橘さんへの依存は止めなきゃと思うけどこいつらに寄りかかるのを止めなきゃと思いすらしない時点でこっちの方が重症かも。
でも尊敬する橘さんにだけは負担かけたくないという気持ちばかりが先行して、とにかく今まで以上に他に寄りかかってでも橘さんへの依存をなんとかしようとしている俺。最低だ。屑。

いくらが向かい側で「いや最低じゃないよ屑じゃないよ元気だしなよ、ゆっくり自立していけばいいじゃん」とか言ってくれていても結局俺が最低で屑であることに変わりはないから何言っても無駄、ってさっき追いかけてもいいよ甘えてもいいよって言って欲しいとか思ってなかったっけ。支離滅裂すぎ。甘えてもいいよって言われたら言われたで「簡単に言うけどさあ、できるわけないじゃん」とか言ってたんじゃないの俺。

とかなんとか考えていたら全部口に出ていたらしい。は両手を挙げて「降参」と言った。

「いったん時間おいて頭冷やそう。今何言っても険悪になっちゃう気がする」

ほらまたこうやって気を遣わせる。





そして俺は、の言うとおりに志望校を変えようとして――――結局、志望校調査の紙切れに橘さんと同じ大学を書いて出した。

そしてには嘘を吐いて、神尾達には何も言わず、そのまま橘さんと同じ大学を受けた。

焦りなんだか罪悪感なんだか分からないけれどぐるぐるして冷静な判断ができない頭で、大学の名前を汚い字で書き殴りながら、ああこれが中毒症状か、なんてどこかの冷めた頭が呟いた。