永い時を過ごしていた。
この土地に根付き、ずっと見守ってきた。いつしか己の周りを囲むように社が建ち、橘の樹はこの地の守り神となった。
地の人々はみな橘の樹に祈った。神よ、わたしたちをおまもりくださいと。岩鳶は橘に守られていた。ときおりその枝葉の隙間を抜け、零れ落ちるようにいなくなる者もいた。守れないことをかなしいと思いながら、ただ橘の木はその地に根付いていた。
「この子が無事に、産まれてきますように」
そう願いに来たのは、若い夫婦だった。片方は海の向こうからやってきた。名を七瀬と言った。女のはらのなかには子供が眠っていた。たゆたうように母親の胎の水の中で眠っていた。
橘には未来が視えた。その子供がいつか、海に呑まれて死ぬのが視えた。そこで突然、橘は身を切るような痛みを知った。初めて、彼に死んでほしくないと強く思った。
千の時を生きた橘は、まだ生まれてもいない、海に繋がれた七瀬の赤子に恋をしたのだった。
そして海の子、七瀬遙が産まれた四月後に、橘真琴は生まれてきた。
「まこと」
長い時をまっさらに忘れてしまった真琴にとって、遙はいつも自分の手を引いて歩いてくれる家族であり、大切な友であり、そしてやっぱり初恋の人だった。
道の先で、遙が振り返って真琴を待っている。
「何してる、早く来いよ」
「うん」
駆け寄ると遙はちいさな手のひらを差し出した。手指を絡ませて二人で駆け出す。なんてことのない日常なのに、その瞬間真琴はいつもどきどきした。
「ハルちゃん」
黒い髪の間から見え隠れする白い耳と首筋をなにとはなしに見つめながら、真琴は呼びかける。
「このままふたりで、どこまでも一緒に行こうねえ」
ちら、と青い瞳が振り返った。たぶん真琴の考えていることは分からなかったと思う。だって真琴にも分からなかったから。どうしてこんな気持ちになるのか。
けれど遙は真琴の手を引きながらこくりと頷いた。遙が真琴の願いを叶えようと思ってくれたことが、真琴はとても嬉しかった。
真琴はとても怖がりだった。とおくへ行くことが怖かったし、海が怖かったし、死が怖かったし、ひとでないものが怖かった。それがいつか見た未来と、神木の性ゆえだったのだと気付いたのはずっと後になってからだったけれど、その度に竦む足を引いてくれたのは遙だった。それが嬉しかったし、時にとてもせつなくて哀しかった。どうしてかは分からなかった。
今なら分かる。「遙を失うこと」を恐れていた自分を救ってくれたのが遙自身だったことが、どうしようもなく真琴の心を締め付けたのだ。今なら分かる。真琴が一番恐れていたのは間違えることだった。せっかく遙を守るために産まれてきたのに、遙を死なせてしまったら、それまでの全部を放り投げて人になったのに、助けを求めるほかの人々よりたった一人の遙を選んだのに無駄にしてしまったらと、真琴はそれを恐れていたのだろう。
溺れた遙を前にした真琴を見て、凛が怯えたのも無理もないことだった。あの時の真琴には真琴の全部が圧し掛かっていた。何百年ぶんの存在の意味だとか、そういう重たいものが真琴の両肩に全部乗っかっていた。それを一瞬でも触れて理解しようとしてくれた凛はやさしいと思う。嬉しかったし、申し訳ないと思っている。渚もいる。江だって怜だって、遙の周りには遙を幸せにしてくれる人達がたくさんいる。だから大丈夫だ。真琴の役目はここまで。意識をなくした遙の頬を指の背で撫でながら、心底からの安堵で真琴は微笑んだ。
「思い出したよ、ハル」
間に合ってよかった。
神社の橘の樹の元気がない、と神主から聞いたときは他人事だと思って聞き流していた。けれど今思えばそれは、真琴が樹木である自分の本性を無視して海の潮の中に身を置き続けたからに他ならなかったのだ。何を感じたのか、遙はじっとその樹を見上げていた。どうしたの、ハル、と呼びかけると遙は、いや、とだけ返して橘の樹に背を向けた。遙はあの樹に何を思っていたのだろう。何を思ってくれていたのだろう。真琴の樹の根は海の水に腐り切っていた。倒れる前に遙を救えてよかった。遙の未来を、変えられてよかった。
真琴が見た、真琴のいない世界の遙は、17歳の夏に海に呑まれて死んだ。再会した凛と仲違いをしたまま、水泳の才能を活かすこともないまま、17歳で溺れて死んだ。それがやり切れなかった。どうしても、遙が答えを掴むまで、遙に生きていてほしかった。だから産まれてきた。本来なら一歩も動かぬ足を引き摺って、乾いた身体を水に浸して遙を追いかけてきた。岩鳶の空を仰ぎながら泳ぎ続けてきた。すべて、この時のためだ。
薄く遙が瞳を開いた。蒼い色が揺れて、その瞳が真琴を見つける。
「まこと?」
「もう、気をつけないと駄目だよ、ハル。俺が見てたから良かったけど、そうじゃなかったら溺れてたよ?」
諭すように言って、遙の額を撫でた。何が起こったか分からないという顔で遙は真琴を見上げている。溺れかけたという自覚がないのだろう。確かに遙に落ち度はない、ただ海が、泳ぐ遙の足を引いただけだ。遙は身体を起こして、ぽかんとしたまま辺りを見渡した。いつも通りの海岸線、何度だって数え切れないほど遙が泳いできた海だ。先程遙の足を引いたことなど忘れたような涼しい顔で、海は潮騒を奏でていた。渡さない、と思う。少なくとも、真琴の樹が倒れるまでは。
「帰ろう、ハル」
真琴は立ち上がり、いつの間にか大きくなった己の手のひらを遙に差し伸べる。いつの間にか、手を差し出すのは遙ではなく真琴の役目になっていた。掌が重なって、真琴の腕は遙の身体を引き上げる。
遙はきっとずっと生きるだろう。すごいスイマーになって、素晴らしい仲間たちと一緒に、どこまでも泳いでいくだろう。
俺も一緒に泳いでいきたい。行けるところまで、皆と一緒に泳いでいきたい。役目を終えた真琴の心に、新しい願いが浮かぶ。繋ぐ手に力が篭り、一瞬だけ、遙は不思議そうな顔で振り返って、それからゆるく手のひらを握り返した。
神木の根は腐ってゆく。少しずつ、海に侵されて。
遙はぐんぐん泳いでいく。真琴はこの地を離れられない。
「ハル」
名前を呼ぶと、進むのをやめた遙はこちらを不思議そうに振り返った。この前の大会で、遙は一躍注目を浴びた。遙は岩鳶を飛び出して、名前の通り遠くへ、七つの海を渡って世界を泳ぐだろう。隣にいたかった。そんな遙の隣で、ずっと遙を見ていたかったけれど、
「それより先に、俺は行けない」
「真琴?」
軋む音が聞こえる。不穏にざわめく木の葉の音が。岩鳶を見守り続けた橘の樹が、今ゆっくり倒れようとしていた。
「ここまで俺を連れてきてくれてありがとう」
「突然、なに言い出すんだ、真琴」
「遙たちとならどこまででも行けるって、そう思えて、楽しかった」
「おい、真琴……?」
橘の樹は折れた。泳ぎ続けて根を腐らせて、大地に立っていられなくなって崩れて倒れた。
「橘真琴」も崩れて消えた。
「真琴」
鳥居を潜って、息を切らせた遙は倒れた大樹に駆け寄った。
「ふざけるな、お前ばっかり、言いたいこと言って」
彼の蒼い目から涙が零れていた。あおいしおみずは、橘の根元にぱたりと落ちて、吸い込まれて消えた。
「俺だって、言いたいことが、山ほどあった」
海の水だ、と真琴は思った。俺たちが泳いできた海の水。遙と真琴を運んでくれた水だ。
「お前をどこまでも連れて行きたかった」
夕立のように雫は落ちた。ぱたりぱたりと止まない雫を見て、もう手を伸ばせない自分の非力さに胸が痛んだ。
七瀬遙は、いまでも枯れた橘の押し花ををひとひら、大切にしまって海を泳いでいる。