一緒に間違えてくれる人はもういない。それなのにまだ正解を見付けられずにいるのだ。
光忠は今日も間違い続ける。
「……教えなかった、俺が悪いんだろうな」
苦々しく審神者はそう言った。だが、それが何になるのだろう。審神者が「自分が悪かった」と言ったところであの人はもう戻ってこない。
(なんて、自分で、そうしたくせに)
ふ、と笑うと審神者はわずかに背を逸らした。怖いのだろう。光忠が。あれから顔も洗っていない。唇を舐めれば血の味がした。
鮮血を含んだ、真白だった布地を思い出してずくりと肚が重くなった。ああ、
(悲しい)
悲しい。悲しい。
「今度からはちゃんと、刀剣男士にも教えるようにしないとな」
審神者が何かを言っている。今度なんてない。ふたりにはもう、「今度」などないのだった。
彼を見ると、身体の奥の、指の届かないところが痒いような、心臓をかきむしってしまいたくなるような心地になった。
何かが溢れるような気がして、急いで手のひらで抑えなくてはいけないような気もした。
とにかくなにか、何かをしなければ、どうしようもない、そんな気分になったのだ。
それを彼に話すと、彼は「面白い」と言って笑った。
「鶴丸さんは、そういう気分になったことはない?」
問えば、彼は「そうだな」考え込み、そして
「冷やさないといけない気分になるな。冷たい刃でも差し込まないといけない気がする」
見たことのない顔でそう言った。光忠は、それも分かる気がするなあ、と思った。不思議と、「それ」を誰かと共有したことによってか、その症状は少し落ち着いた。
「きっと今だけさ」と鶴丸は言った。
「心を手に入れたばかりだから、扱いきれずに暴れているだけなんだ。じきになんてことはなくなる」
そう、鶴丸はこの症状の原因を「心」だと断じた。退屈な時に重くなる場所と、同じ場所が熱くなるのだという。
そして光忠はそれをまだ信じられずにいる。人を斬ってみれば分かるが、肚の中に「心」などという臓物は入っていないからである。
鶴丸の言うことはあてにならない。じきに良くなると言われたそれは、日に日に酷くなった。
「今日は身体の内側から泥でもぶちまけられているような気がする」
「俺は今日は、何かが中でめちゃくちゃに喚いてるぞ。聞こえないか?」
冗談めかして言った鶴丸は、そのまま光忠の手を取って己の腹に触れさせた。
「な、にも、聞こえないよ」
耳元で心臓の音がうるさくてそれどころではなかった(普段は胸元にあるはずの心臓が耳元で鳴っているというのも奇怪な話だ。ますます光忠には人体がわからない)。鶴丸はどこか満足げににやりと笑った。
「そうかい?俺は少し楽になったな。自分で抑えるより、君に抑えてもらったほうが効くようだ」
「それは良かったけど、僕はもう駄目だよ。喉元までせり上がってきて、呼吸がうまくできないんだ」
「どれ、今度は俺が抑えてやろう」
するりと白い指が、光忠の喉元を撫で、胸元を抑えるように動き、最後に腹をさすった。
光忠はまだ、泣くということを知らなかったが、喉につかえた何かがするりと融けて、瞳から溢れそうな気がした。心臓の音ばかりが、相変わらずうるさく鳴っていた。
「伊達男が、ひどい顔をしてるなあ」
からかうように笑う声は優しかった。もっと触れていてほしいと思った。同時に、これ以上触れられたら燃え落ちてしまうとも思った。鶴丸はしばらくそうしていたが、終ぞ光忠の肌が焼け落ちるようなことはなかった。
それから時折、二人は慈しむように、そして傷口を抉り合うように触れ合うようになった。
「暴れる心を持て余した、情けない君の顔が好きだ」
そう言って鶴丸は光忠の剥き出しの目蓋に唇を寄せた。
「『心』に翻弄されて踊らされている奴が、俺だけじゃないと実感できる」
閉じた目蓋の上から降る声を受け止めながら、光忠は自分も、こうして鶴丸が苦しみを開示してくれていなければ、とっくに気が触れていただろうと思った。格好悪く取り乱す光忠と違って、鶴丸はいつも澄ました顔で佇んでいる。光忠は鶴丸の言葉でしか、鶴丸の身を灼く『心』を知らない。くつくつと頭の上で鶴丸が笑った。何が可笑しいのかと問えば、
「いやなに、君だって普段は相当澄ました顔をしているのにと思ってなあ。君のその顔を、知っているのはきっと俺だけだぞ」
そして俺の『心』のことを知っているのも君だけだ。
そう嘯いた鶴丸の顔を、見上げることができなかった。視界に広がる白の羽織と灰の帯をただ眺めていた。鶴丸の体温を感じる。相変わらず心臓はうるさかったが、不快ではなかった。先ほどまでざらついて身の裡を荒らしていたものが、今はじんわりと胸を満たしている。なにも言えないまま光忠は、鶴丸に身を委ねていた。
「君がいてくれて良かった」
鶴丸は囁いた。光忠には分からなかった。この人さえいなければ、こんな痛みはきっと知らなかった。
季節は巡る。鶴丸と、そして自分の心とともに光忠は時を過ごした。初めて雪に触れた。降りしきる桜の下に立った。夏の海を見て、紅葉を見た。それらは刀だった頃にも見たことがあったはずのものだった。全然違った。あの頃見えていた世界とは、なにもかもが違っていた。
その頃になると、勘の良い者は光忠と鶴丸が共有する秘密に気付くようになっていた。「理解できない」と言う者もいれば、「分かる」と応えた者もいた。
「優しくされると、その時だけ治まるんだよ。でもしばらくすると、前よりももっと酷く暴れ出すんだ」
そう呟いたのは乱だった。普段よりずっと大人びた顔をして呟く。
「それが辛くて、また会いたくなるけど、それって、どこが終点なんだろうね」
終点。光忠にも分からなかった。日に日に増していく感情の大きさと渇きを、これからどう抱えて生きていけば良いのか、検討もつかなかった。
乱の言葉を鶴丸にも伝えると、鶴丸は嘆息した。
「乱か。乱がかあ……」
芒と明るい春の夜に、二人は肌を寄せ合っている。布越しでも触れ合えば満たされた段階はとうに超えて、お互いの手袋を剥ぎ取って、鶴丸の袖に手を差し込んで腕を絡めた。触れて、直に存在を確かめればひりつくような渇きは少し鳴りを潜め、それでもしばらくすればまた足りない、足りないと騒ぎ出す。
「鶴丸さんは、どこに終点があるんだと思う?」
「終点か。そんなものが、必要かい」
「鶴丸さんは、なくてもいいの」
この甘い苦しみに終点がないのなら、光忠はそれに耐えられないだろうと思った。いつかきっと、肚の中に住む蛇が光忠を飲み込んでしまう。
「そうだな、俺は、この痛みをずっと感じていたい気がするな」
ぽつりと鶴丸が零したので、光忠は彼の顔をじっと見つめた。白い睫毛が、頬に黒い陰を落としているのが不思議な感じがした。
「それが、ひとの身体を持って生きるということなんだろう」
「鶴丸さんは、……強いね」
目元がじんわりと熱くなって、光忠は鶴丸の首元に顔を伏せた。「泣くなよ」と苦笑して、鶴丸は光忠の髪をくしゃくしゃと撫でる。「泣いてないよ」と、答えるだけで精一杯だった。腹を埋めていたなにかが、今は胸までいっぱいに広がっていて理解が追いつかない。何が悲しいのかも分からなかった。
「……君は馬鹿だな。俺なんかを想ってそんなに苦しむなんて」
鶴丸の手が優しかった。あやすように光忠の髪を梳き、光忠の耳に唇を寄せて囁く。
「俺はひどい奴なんだ。君がこうして苦しんでいるのを見ると嬉しくなる。苦しいのが少し楽になる。もっと俺を思って苦しんでくれないかとさえ思う。なあ、俺のせいでそんなに苦しむことはないんだぞ」
そう言う鶴丸の声は少し掠れていた。初めて鶴丸が苦しみを曝け出し、差し出してくれた気がして、心臓が大きな音を立てる。それは初めての、本当の意味での鶴丸の苦しみの吐露であり、彼の嘘でもあった。彼は楽になどなっていない。楽になったのと同じだけの苦しみが結局は彼を苛んでいるだろう。それがありありと分かる声だった。優しいこの刀は、他人の苦しみを食らって自分が楽になることにすら苦しんでいるのだろう。
「この苦しみを手放すなんてできないこと、鶴丸さんも知ってる癖に」
手放せたらきっととっくに手放している、と言外に含めてそう言うと、鶴丸は「ああ」とだけ答えた。腕を絡めるだけの、頬を寄せ合うだけの触れ合いがもどかしくて、もっと触れたいと鶴丸に告げた。鶴丸は許した。
その日初めて、光忠は鶴丸の胸の鼓動を聴いた。
人間の感情というのは、これほどに苛烈なものなのだろうか。かつて光忠が見てきた人々は、皆こんなものを抱えながら、飼い慣らして生きていたのだろうか。それとも自分達が人間ではないのに心などを持ってしまったから、過ぎる力が身を滅ぼすかのように、こうして灼かれているのだろうか。
二人が人間だったなら、苦しみなどなく側にいられたのだろうか。
肌を合わせた。鼓動を聞いた。太陽ですら知らない、彼の白い身体を目に焼き付けた。衝動に任せて舌を這わせ、汗の味を感じた時には頭が燃えるような心地がした。これだけ五感で鶴丸を感じて、これだけ近付いても、もっと、もっとと駆り立てる衝動に、頭がどうにかなりそうだった。これ以上は近付けない。身体を手に入れた二人は、互いの肌を越えて近づくことはできない。これ以上互いの存在を強く感じられる方法を、二人は知らない。
ある日、鶴丸が泣いた。いつも光忠を宥める側だった鶴丸が、光忠の腕の中で、ぼろぼろと涙を落として泣き出した。彼は決してその心中を明かさず、ただ、「ごめん、ごめんなあ」と繰り返して泣き続けた。光忠は鶴丸をぎゅうと抱き締めることしかできなかった。
身体が邪魔だった。抱き締めあっても一つになれない。二人の間に空いた隙間すら悲しかった。いっそふた振りの刀として鍔迫り合いをしていた方が、まだずっと「近付ける」気がした。そして、きっとそれすらまだまだ遠いと感じて苦しいだろうとも感じた。鶴丸の腹を裂き、その臓腑に近付きたいと思ったことも一度や二度ではない。その度に耐えてきた。
もう、耐えなくてもいい気もした。
鶴丸の首筋に牙を立て、衝動のままに食い破れば、びくり、と抱いた身体は大きく震えた。口の中に血の味が広がる。鉄の匂いが。強い酒に酩酊したかのように、頭が高揚でぐらぐらと揺れた。
「みつ、」
戸惑うような鶴丸が、己の名前を呼ぶ前に、光忠はその首元を、そのまま大きく食い破った。
「ぐ、う……っ!」
鶴丸は苦痛に呻き、指先が強く光忠の腕を掴んだ。自分の行為に返ってくるその反応にすら歓びがこみ上げてきて、目が回りそうだった。
こうすればよかったんだ、と思った。初めからこうすればよかった。噛みちぎった肉は「鶴丸」そのものだ。飲み込めば、肉片が胃の腑へ落ちていくのを感じた。今、腹の中に「鶴丸」がいる。
食い千切られた首筋に舌を這わせば、傷口を抉られる痛みに鶴丸はびくびくと痙攣する。溢れてくる血を夢中で啜った。
「みつ、みつただ」
痛みに喘ぎながら鶴丸が名を呼んだので、光忠は顔を上げた。常より更に白い顔で、少し困ったように鶴丸は光忠を見ていた。
「きみ、俺を、食べるのか」
「……食べちゃ駄目かい?」
拒絶される可能性を考え付いていなかったので、悲しくなって光忠は鶴丸に聞き返した。
「鶴丸さんを、まるごと、僕の中に収めてしまったら、駄目かな……?」
縋るように問えば、鶴丸は少しだけ言葉を詰まらせて、そして、
「……駄目じゃないさ。おあがり」
そう、答えた。
鶴丸の腹の中は温かかった。食い破られるごとに呻いていた鶴丸はもうぐったりと力を抜いている。歯を立てられれば、反射で抗うように脚がびくりと跳ねた。常の人間ならとっくに死んでいる量の血を溢れさせて、しとどに濡れたシーツに横たわっていた。
「みつただ」
腹を食われて力が出ないのだろう、か細く鶴丸は光忠を呼んだ。鶴丸を食むあいまに、光忠は「なに」と応える。
「きみは、すごいな」
鶴丸の白い髪が、汗で額に張り付いていた。焦点の合わない瞳が、ぼんやりとこちらを見つめている。
「おれは怖くて、踏み込めなかった」
どこへ、ともなにに、とも鶴丸は言わなかった。うわごとのように、ぽつりぽつりと鶴丸は話した。
「なあ君、……はらのなかで、俺の『心』を見つけたら、どうか 君のその牙で噛み砕いて、もう二度と 騒がないようにしてくれないか」
ぱたりと、鶴丸の瞳から涙が落ちた。
「ここが 終点だ ありがとう みつただ」
それきり彼は話さなかった。光忠はその腹を食らい続けた。
心などという臓器は、どこにもなかった。そして、
悲鳴。怒号。誰かに引き剥がされそうになって、夢中で抵抗したことを覚えている。光忠は鶴丸に「まるごと食べる」と言ったのだ。鶴丸はまだまだ残っている。
ふいに、頬を張られた。強い衝撃に、光忠を支配していた熱狂が覚めていく。
目の前にあったのは、血塗れの鶴丸の屍体だった。
「────あ、」
もう鶴丸ではなくなった肉塊を見て、光忠を見る『彼ら』の顔を見て、光忠は一瞬で理解した。
間違えたのだ。
こんなやり方は間違っていたのだ。
一瞬で理解して、そして、鶴丸がもう二度と笑わないことを、人を驚かせることも、本体を振るうことも、そして光忠に苦しみを吐露することもないことを悟った。光忠がそうした。自分が、殺してしまった。
もう、自分より少し低い体温を感じることができない。髪を梳いてくれることもない。苦しいと打ち明けた時に、微笑んでくれることもないのだ。
飲み込んだ肉片が、もう鶴丸ではない鶴丸の欠片がせり上がってきて光忠は口を抑えた。吐き出すな。ここで吐き出したら本当に鶴丸はただ死んだだけになる。食らったならば血肉としなければ許されない。鶴丸がもう戻ってこないなら、光忠にできることなどもうそれしかないのだ。
「どうして、こうなった」
動揺を押し殺した声で審神者が問うた。
光忠は答えた。
「鶴丸さんを愛していた」