原罪ヘミモルファイター
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水が、浸み込んでくる。遙の身体を駆け巡り、みずの塊は活き活きと力を漲らせる。
「水を得た魚のように」と、一度遙は表現したことがあった。あれは真琴が変な顔をしたからもう二度と言っていない。
「水神様がハルちゃんを食べているんだよ。逆だよ。あれは魚を得た水だ」
真琴はそう言っていた。それも確かに、と思ったが、水の神に啄ばまれる快感に、結局すべてはどうでもよくなるのであった。魚でも水でもなんでもいい。今、遙と水はひとつだった。

歴代の巫子の中にも、遙ほど水を「通す」のがうまい者はいなかったという。水通しの儀を遙が受け持つようになってから、岩鳶で獲れる魚の量は目に見えて増えた。それを遙は少し誇らしく思っている。自分は誰よりも水の近くにいるのだと、特にそれ以外に望むことなど、遙にはなかったのだ。

凛に会うまでは。


遙の暮らす社において、その紅色は異質であった。鳥居のからくれないの色とも、浜辺のさくらがいの色とも違う。夕焼けとも、溜め池で泳いでいる金魚とも違った。
ある日突然現れたその紅色の子供は、遙にいろんな話を聞かせてくれた。遙の知っているものとは違う泳ぎの型や、外国の海の色や、それから凛自身のことや。
同じ髪のいろの妹がいるのだと言っていた。遙は世界にこんな色の人間が他にもいるのかとなんだか不思議な心地がした。あの紅色は凛の色だ。その頃にはそう思うようになっていたのだ。
「お前、ずっとここにいるつもりかよ」
それは何気ない風を装っての問いだったが、凛は本気で言っていた。俺よりいろんな人間に会ってきたはずだろうに、嘘のへたなやつだ。遙はそう思いながら、ぼんやりと凛の横顔を見つめていた。
「ずっとここで、あのよくわかんないような化け物に食われ続けて、そんで死ぬのかよ。そんなの意味あるのか」
「意味」
「なんかあるだろ。将来とか、そういうの」
なかった。遙には鳥居の外の世界なんてなかったのだ。それなのに凛が勝手に踏み込んできて、外の世界を入れる隙間を作ってしまったのだ。
俺を食い荒らしているのは水じゃない。お前じゃないかと、遙は思った。

「外に出ろよ、お前」
こんなとこにいちゃだめだ、と凛は言った。
「凛は」
どうするんだと問おうとして踏みとどまった。それは凛に手を引いて外の世界へ連れ出してほしいと言うことと同義だからだ。
凛はゆるく吊ったするどい瞳をゆがませて、なんだか怒ったように黙り込んでいた。
遙は急に分からなくなった。遙を知らない世界へ放り出そうとする凛のことも、「連れて逃げてほしい」と思った自分のことも。

「逃げる」? どういうことだろう、自分はなににも追われてなどいないのに。自分は望んでここにいたはずだ。溜め池でぐるぐる泳ぐ金魚とは違う。遙は自由だ。その上でここにいたはずだった。


分からなくなった。

分からなくなったら、海が荒れた。今まで自分はどんな風に水の中で息をしていただろう? 社の大人たちが焦っているのが分かった。巫子の力を失うわけにはいかない。
「どうしてた、何がいけなかった、何が」
声を荒げて神主が言った。血走った目。こんないきものはしらない。こんなところじゃない。遙が今まで過ごしてきたのはこんなところじゃなかった。遙はただひたすらに恐ろしかった。取り返しのつかないほどに自分が「変わって」しまったのだと思った。見える世界も違ってしまうほどに。
「ハルちゃん、ここから逃げて」

ある日の夜、眠っていた遙の手を引っ張って走り出した真琴が言った。真琴は泣いていた。それで遙は、ああこいつは今俺が見ている世界をずっと見てきたんだと思った。