異変に気付いたのはいつだっただろうかなどと考えるのは瑣末なことだ。今となっては意味も感傷もない。
借金取りが来た。そこでギギナ・ジャーディ・ドルク・メレイオス・アシュレイ・ブフは事務所の会計を背負わせる人間がもう存在しないことを知る。
不愉快である。何故馬鹿眼鏡の都合で己の経済活動を制限されねばならぬのか。しばらくはそれでも前と変わらぬ蕩尽を過ごしたが、ついにある日事務所の前で借金取りが死んでいた。
三日経っても死体が消えることはなかったので、仕方なく地域の共同の廃棄所に投げ込む。強欲の借金取りが一人捨てられていたからといって、喜ぶ者がいたとして、困る者がいるとも思えない。さしたる事件にはならないだろう。事を大きくしても良いことなど何もない。
仕事は減った。事務所の人間の著しいコミュニュケーション能力の低下に拠るものだがギギナの責任ではない。眼鏡が悪い。
近頃は依頼者でもない人間が頻繁に事務所に出入りするのが目障りで、自然事務所から足も遠のく。仕事を請けるだけが強敵との出会いではない。それは構わない。
しかし、一つだけ頭痛の種があるとするなら。
絶妙な間合いで〈爆炸吼〉が弾ける。一人での狩りだ。そのはずだった。一つ舌打ちをし、しかし戦闘に支障が出るわけでもないのでそのまま剣を振るい続ける。ああ、切っ先が揺れる。精神の乱れが剣に出るとは己もまだ未熟だと自嘲した。〈予槍射〉が飛ぶ。
「貴様は何度言えば分かるのだ」
無為と分かっていて吐き捨てる。ガユスは軽薄な笑みを貼り付けたまま答えた。
「何のことかな、低脳で野蛮なギギナ君?高等生物である俺にも分かるようにヒトの言葉で喋ってくれ」
「今日はあの女が見張りについていたはずだが」
「周囲は確認したが見張りはいなかったぞ?」
「事務所だ」
「事務所に見張り?今度は何をしたんだギギナ。ってああ、ギギナは生まれた時点であまりにも欠陥品で死罪だから追われてるんだったね忘れていたよ」
「生存罪で死刑になるのは私に限った話ではない」
見張っていたのはガユスの恋人である女だ。元より一介の女が攻性咒式士を見張るなど無理な話だったのだ。しかし女は頑なだった。必ずガユスを引き止めてみせると白い唇を引き結んで言った。一度失敗すれば悟るだろうと了承した。
「一応聞くが、殺していないだろうな」
「何を言ってるんだ、たった今お前が止めを刺したところじゃないか」
きょとんとして、ガユスは目の前の大鬼を指し示した。あまりの頓狂に頭痛がする。
「ジヴーニャだ」
「ジヴーニャがどうしたって?」
埒が明かない。ガユスはなんの疑問も持たない顔で会話を紡ぐが、その前後関係は破綻している。腹立たしく冗長な口上は常通り。彼は自分の記憶が右から左へ零れ落ちていっていることに気付いていないのだ。
そういえば、と何かを思い出したようにガユスが話題を変えた。この間ラルゴンキンが、で始まる彼の話はもう過去に七度も聞いたものだった。
「君達には失望したよ」
ある日やってきたモルディーンはそう言った。
「どうして突然やって来てそんな事を言われなければならないのか、意味が分からない」
「ああ、君と会話をしようとは思っていないんだよ。すまないね」
モルディーンは軽くガユスをいなすと、ギギナの方へ向き直った。
「君はガユス君と違って、私がこう言った理由が分かるね」
ギギナはふんと鼻を鳴らした。
「嘆かわしいよ。全く嘆かわしい。もっとも進んで欲しくない予想図へ、君達は歩を進めてしまった」
「言われているぞギギナ、お前一体何をしたんだ」
「聞いてくれるかいガユス君、彼はとても大切な人を大切にするあまり、何度も何度も治して治し続けるうちに脳を少しずつ狂わせてしまったんだよ」
「それは酷い。自分の人生に望みを持てないからって他人の人生を左右するなよギギナ。お前なんかに人生を狂わせられるなんて俺だったら舌を噛んで死ぬね」
「こう言っているよ、ギギナ君」
「貴様は口内炎を潰して死ね」
「酷い!そういうギギナは、俺のホートン占いによれば歯を噛み砕いて死ぬでしょう!」
「君は『これ』でいいのかい」
モルディーンは口元だけを笑わせて問うた。
「戦いに支障はない」
ギギナの答えに、モルディーンは喉奥でくつくつと笑う。その瞳がが絶対零度に光っていた。
「何の答えも見出さぬまま、まやかしを手に入れて君達は満足したことにするんだね」
そう言ってモルディーンは去っていった。そして二度と事務所に足を踏み入れることはなかった。
今日もギギナは狩りをする。ガユスが壊れてもそれは変わらない。毎回置いて出て行くのだが気が付くと後ろから咒式が飛んでくる。そうして詰れば「なんのことだ」と彼は笑うのだ。
モルディーンがギギナを責めるより前に、当然ジヴーニャがギギナを責めた。無理をさせるからだと。彼には過ぎた戦場だったのだと。
イーギーは苦虫を噛み潰したような顔で悪態をついた。それは脳の蘇生に失敗したギギナに対してだったのか、それとも幾度も脳を蘇生される羽目になったガユスにだったのかは分からない。
ラルゴンキンは悲しい目で黙っていた。「ガユスはもう、戻ってこないんだな」そう呟いたのはひと月もあとになってからのことであった。
過ぎた戦場などではなかっただろう、ガユス。苛立ちはしかし時間を戻さない。今日も罪人は踊る。
「どうしたギギナ?白蟻が家具を突き破って顔を出したかのような顔をしているよ?」
全く以前と変わらぬ様子のガユスがしかし、書類に書いている日付は半年も前のものだ。
ノックの音がして、ジヴーニャが顔を出した。ガユスが驚いて立ち上がる。
「ジヴーニャ?事務所に来るなんて珍しいじゃないか」
言われてジヴーニャは疲れたように微笑んだ。毎日のことだ。ガユスが『こう』なってから毎日彼女はここへ来る。その度にガユスは驚くのだ。
「ちょっとね」
初めのうちこそ彼女は取り乱して、昨日も来たじゃない、どうして覚えていないのと泣いた。けれど戸惑うガユスがそれを理解することはない。何をしても彼の記憶を刻むことはもう不可能なのだ。彼女の瞳には諦念が宿っている。
ガユスを事務所で見張ると言ったあの日、ギギナが事務所に帰ると彼女は疲れたように座り込んでいた。ガユスの定位置だ。普段通りの会話をしていたはずが、一瞬目を離した隙に消えたらしい。
「私が一番許せないのは」
その日のジヴーニャの頬は、乾いた涙でざらりと光っていた。
「ガユスが、人としての自分を忘れても、咒式士としての自分は決して忘れないことよ。冷蔵庫の中身も覚えていないのに、仕事道具が減れば補充すること。私との時間から逃げて、貴方との戦いに向かうこと」
目を合わせずにジヴーニャはぽつぽつと、しかし強い声で語った。
「ガユスはまだ終わっていないと思っているの。鎖のように戦いが続いたあの日々をまだ戦っていると思っているの。もうとっくに終わってしまったのに。貴方ですらあの舞台からは降りた気でいるのに。そうでしょう?」
瞬きの拍子にぱたりと再び涙が落ちた。
「あの戦いがガユスを殺したのに、ガユスはあんなにもあの戦いに恋をしている」
ああガユスよ、私とて終わらせたくなどなかった。あの戦いに愛されることなく私はこの手で殺してしまったが、私とてあの戦いに焦がれていたのだ。
どうせもうガユスに何を聞かれても構わないのだ。忘れてしまうのだ。だから敢えて言おう。
「後悔ならばとうにしている」
ぱたりぱたりと落ちるジヴーニャの涙は土砂降りとなった。ギギナは踵を返し、誇り高きドラッケンの生き様へと帰っていく。