彼の心臓は未だ惰性で動いていた。
雪は彼の身体に薄らと降り積もっている。皮膚はちりちりと痛み、やがて感覚を無くした。感情と同じだ。刺激を感じるのは最初ばかりで、いつしか何も感じなくなる。だというのに、未だに身体は生命を維持するために小刻みに震え、熱を生み出していた。無音の世界に心臓の音だけが煩かった。
「ストラトス君」
雪の中で緩慢に死にゆくことすら億劫で面倒で飽きてきたころに、乾いた声が退屈を引き裂いた。
ああそうだ、惰性だ。いつだって惰性なのだ。この声も、きっといつかこの雪の冷たさと同じように、つまらない物に成り果てるのだろう。この声があの存在が色褪せてしまうのなら、その前に死んでしまおう。慌てて彼は呼吸を止めたが、いかんせんこの自殺は声から耳を背けるには退屈すぎた。
「ストラトス君、そんなところで眠ったら死んでしまうよ」
「ご心配をかけて申し訳ないので死にます」
「こらこら」
頚動脈に氷柱を衝き立てようとしたもののジオルグの咒式が発動、氷柱は掌の中で蒸発して消えた。
それを皮切りにストラトスを緩く埋め立てていた雪も氷解、ストラトスの身体は低温と重力から解放される。
身体が訴える。暖かいと。心地良いと。
全ては惰性だ。この温度すらものの数分で当たり前のものに成り果て、やがて自分はまた飽いては捨てることを繰り返すのだろう。
冬が終わり春が始まることに対する僅かな新鮮さは、春が幾月も続きいつまでも地球が回る退屈に比べれば塵のようなものだ。
「事務所に帰ろう、ストラトス君」
冷え切った手を取った灼熱すら、いつかは飽く。彼の掌から温度を奪うだけ奪って自分は何も感じなくなる。この焦燥も、恐らく未来の自分は思い出せないだろう。
「飽きました」
嘘が口を衝いて出た。否、嘘ではない。いつか嘘ではなくなるのだ。
ジオルグが振り向く。いつもは気怠げに眼球の上部を覆っている瞼が、今は丸い瞳を露わにしていた。この瞳をずっと、覚えていられる自分だったならばどれほど良かっただろう。
「事務所にかい?」
「事務所にもです」
「にも?」
手を引かれて歩きながら、ストラトスはじっとジオルグを見ていた。はて、と首を傾げてジオルグは続ける。
「咒式士にかい」
「それもです」
「世界に」
「それもです」
「僕に」
「それもです」
「全てに」
「ええ、全てにです」
「嘘はいけないよ、ストラトス君」
一瞬、世界が止まったような気がした。錯覚だ。止まっていたのは自分の呼吸と判断能力だった。
「何故」
「大人を舐めてはいけない。無意味に思える時間でも、長く過ごしてみるものだよ。案外ね」
「……嘘吐きは死にます」
ナイフを眼窩に突き刺そうとすればジオルグの手がそれを弾いた。
「悩み事があるのなら、相談に乗るよ。年長者だからね」
「子供扱いされたので死にます」
袖に隠した針で更に眼窩を狙う。今度は流石に少々慌てた様子で阻まれた。
「会話のキャッチボールをしよう、ストラトス君!」
「デットボールなので死にま」
「ストラトス君!」
真摯の声音にまた世界が止まる。いっそ飽いてしまえば楽なのだろう。顧みることのない己になってしまえば、この恐怖も消えるだろう。しかし今はただこの恐怖が消えることが恐ろしかった。
「大丈夫だよ、ストラトス君。飽きるのは君ばかりではない」
冬の空気に割れたジオルグの唇が笑みを象った。
「どんなに辛抱強い人でも、僕の長話には飽きると評判なんだ」
何故悟られてしまうのだろう。それが彼の言う年の功だとして、自分は決して彼と同じ密度の時間を生きることはできない。
「それよりも僕は、君が飽きたくないと思っていてくれたことが嬉しいよ」
この感情を忘れても、今日降った雪と、彼の掌の温度は忘れないだろう。不意に切にそんなことを思った。数式だけはこの世界にいつまでも残る。温度の差分は消えようの無い世界の事実だった。